わたしたちの国分寺

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身近な事から国分寺市の歴史をひも解いてく、身近な事から旧石器まで。
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東京都北多摩郡国分寺町恋ヶ窪熊の郷で生まれ育った。

そこで国分寺について

●盆踊り
東京音頭」「炭鉱節」は外せない…
国分寺音頭」(唄:三波春夫
ハァー月のむさしの 昔を今に うけて栄える 文化都市 トコ ヨイヨイの国分寺(ソレ)
富士も見とれる 晴れ姿 ヨイショ ヨイショ ヨイショ 晴れ姿…

国分寺小唄」(唄:姫之宮ゆり)
逢って別れて いるうちに いつの間にやら 恋ヶ窪 若い〜二人の まごころが
花と咲きます パラダイス サテ 国分寺

●池
国分寺崖線の近くには必ず水が湧いている
「都立殿ヶ谷戸庭園」…旧岩崎邸
「日立中央研究所」…ここの大池は戦後に作られたものです。正門すぐのサンヤ谷は北へ走り中研北門あたりから西へつながり、府中街道イトーヨーカ堂辺りまで達している大きな谷です。
「お鷹の道・真姿の池湧水群」…名水百選
「清水池」…姿見池の東、三角山の北にあった小さい池。国分寺跡と同じ割瓦が多くあったという。小寺院跡との説があるが、東山道の駅馬関係の施設跡だと楽しい。

●村
江戸時代初期には水の便の良い国分寺崖線下にしか集落はなかった。
真姿池から野川沿いの「国分寺村」と、姿見池あたりの「恋ヶ窪村」である。
崖の上では水が無くて水田が作れず荒野だったのです。

当時から恋ヶ窪村の農家は勢力が強かったのでしょう、玉川上水が完成するとすぐに水を恋ヶ窪村まで引く恋ヶ窪分水を作りました。この用水は旧鎌倉街道(歩道)に沿って作られ当時の恋ヶ窪村の勢力を示す様に、玉川上水と同規模の深く大きい堀で出来ています。
※宮寺商店前の復活させた用水なんて、チャンチャラ可笑しいぜ。真の恋ヶ窪分水を見たけりゃ熊野神社通りとの交差点の所に行きな!

●新田開発
暴れん坊将軍で有名な八代将軍吉宗は、困窮してた幕府財政を救うために、増税と小さい政府(緊縮財政)の改革を行った。これを享保の改革といい、後に行われる寛政の改革天保の改革の手本となった。
小さい政府のもと「民間資本で開発したら新田は任せるよ」的な町人請負新田の全国的なブームの中、玉川上水の完成で多くの用水と共に新田が開発されました。

その後、多くの用水と共に新田が開発されて、内藤新田、戸倉新田、本多新田、戸新田、野中新田六左衛門組、平兵衛新田、中藤新田、上谷保新田ができたのです。

●野中新田
新田開発のようすをみてみましょう。
新田は街道税を均等に負担する目的から街道(青梅街道など。古文献では海道とも書いた)をはさむ短冊形に地割りされる事が多く、現在の地図を見て道が街道に垂直に並んでいる所が新田開発地だと分かります。

野中新田は上谷保村(現国立市)の名主である矢沢藤八・元右衛門・孫市・平左衛門らと江戸牛込榎町の源右衛門、関口町の町人が1722年に願い出ました。新田開発が始まるとすぐに上谷保村の名主らは開発場を売渡しています。いわば開発業(デベロッパー)が目的だったのでしょうか。また籐八は使い込みが発覚して撤退しています。

その後、冥加金を出資した上総国万石村の名主の野中善左衛門の力が強くなり1926年には村名も野中新田と決まり、名主に源右衛門(後に与右衛門と改名)が、組頭には善左衛門と長右衛門が就任しています。

●鈴木新田
なかなか新田開発が認められなかった貫井村の名主鈴木利左衛門が1922年に野中善左衛門・利左衛門の義兄で下小金井村の名主の関甚五右衛門・上谷保村の元右衛門と共に願い出てやっと始まりました。しかし利左衛門はその後の役米を収める事ができず、折角取得した開発場所を1926年に取り上げられ野中新田に預けられてしまいました。
財政破綻して何も出来ない現在の小金井市の不幸はこの頃から続いていたのでしょうか。

●野中新田のその後
野中新田はその後、開発が進み1932年には与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組・鈴木新田に村分けが行われています。

五日市街道沿いにある釜飯屋「六左衛門」(五目釜飯や馬刺)、やなぎ保育園近くにあるラーメン屋「孫市」は彼らの子孫なのでしょうか。今度食べたついでに聞いてみましょう。

小金井桜
新田開発で活躍した府中押立村の名主川崎平右衛門玉川上水に沿って、大和・吉野山常陸・桜川から山桜(やまざくら)を移植した。寿命約100年と言われる山桜だが、ちょうど100年後の嘉永年間に田無村名主の下田半兵衛が補植し、紀行文や歌川広重の錦絵で小金井桜が紹介された事もあり、江戸末期から明治は江戸・東京の庶民の観光地となった。
ちなみに甲武鉄道が現在の直線ルートになった理由の一つが小金井桜との話もある。