武蔵国分寺の研究

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身近な事から国分寺市の歴史をひも解いてく、身近な事から旧石器まで。
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●江戸時代の歴史ブーム(国分寺瓦の硯など)
 ・新田開発に町人が資本参加→金持ち町人の出現
 ・小金井桜→庶民の娯楽や余暇。後の甲武鉄道(中央線)の路線に影響。
 ・東大構内から武蔵国分寺瓦が発見。武家にも収集家が。
 ・緒方弘賢国分寺瓦で硯を作る
 ・植田孟縉「武蔵名勝図会」1823(文政6)で尼寺が黒鐘と記載、斎藤月岑「江戸名所図会」1832(天保3)
●瓦から遺蹟へ
 明治までは瓦だけ。やっと遺蹟の観点で研究が始まる。
 ・根岸武香(埼玉県で多くの古墳発掘した)が発掘
 ・「武蔵国分寺僧寺の廃址」重田定一(明治36「古蹟」帝国古蹟取調会-「第二巻第二号」全国国分寺報告の第1回目)…初めて遺蹟調査
 ・辻善之助の全国国分寺研究
 ・「武蔵国分寺遺蹟考」沼田頼輔(大正7「武蔵野」創刊号)
●戦前の尼寺論争
 ちなみに日本一大きい高さ158cmの府中善明寺の阿弥陀鉄仏1253(慶長5)は、黒鐘谷戸(製造)→恋ヶ窪村の阿弥陀堂大国魂神社(府中の若者が持ってきた)→府中善明寺。
 ・「武蔵府中古瓦考」住田正一(大正7)に尼寺京所(きょうず)説。〜国分寺僧寺と同じ瓦が出る・黒鐘は僧寺から近すぎる〜
 ・「武蔵国分寺尼寺跡といふ地」山中笑(大正9)で神宮寺(今ではあじさい寺として有名)説。〜京所の寺は尼寺ではない〜
 ★大正十一年十月十二日国の指定史跡指定。
 ・「武蔵国分寺址の調査」稲村坦元後藤守一(大正12「東京府史蹟勝地調査報告書」)で講堂・金堂・西僧房と、北方建物・中枢部・塔跡部・南門・尼寺部・伝祥応寺部のまとめ。その中で尼寺黒鐘説。
 ・「武蔵野の古瓦」三輪善之助(昭和3「武蔵野」)で尼寺京所説。〜国分寺僧寺と同じ瓦が出る・黒鐘は僧寺から近すぎる・京所寺跡に塔心礎〜
●戦前の集大成(伽藍など現在でもほぼ定説)
 ・「武蔵国分寺復原考」太田静六(昭和13「考古学雑誌」)。東西の僧房、鐘楼・経蔵、金堂と中門の回廊といった伽藍構成まで想定。「武蔵国分寺の文字瓦について」太田静六(昭和14「日本美術協会報告」)。瓦の細かい研究が下支え。
国分寺創建はいつ
 ・「国分寺の研究」角田文衛宮崎糺(昭和13)。武蔵国分寺758年創建説。武蔵21郡のうち新羅郡(758年設置)の瓦だけ出土しない事、741年詔・756年催促の歴史から、創建は758年以前と考えられる。
 ・有吉重蔵は瓦等の模様から756年から764年創建と推定。
●戦後の尼寺論争と決着
 ・「武蔵国分尼寺の位置について」石村喜英(昭和25)。伝祥応寺跡が尼寺跡で、その南の鐘撞堂は鐘楼跡説。この説は実際に発掘されるまで定説だった。
 ・「武蔵国分尼寺跡について」大場磐雄(昭和27「武蔵野」)。鐘楼伝承の場所が尼寺の中心説。
 ・「武蔵国分寺図譜」滝口宏。「市発掘調査」滝口・久保恒晴・内藤政恒(昭和39から46)で尼寺跡が判明。
●塔跡2の発見
 ・平成16年に七重塔跡の54m西側で創建時の塔基檀(便宜上、塔跡2と呼称)遺構が見つかる。従来の塔跡(塔跡1)とまったく同じ礎石位置であったが基檀しか発見されなかった。塔跡2の方が金堂に近く国分寺勢力が弱いときの造塔と考えると、『塔跡1造塔→塔跡1再建(承和2年835年の焼失10年後に男衾郡の前大嶺壬生吉志福正)→塔跡2造塔着手したが頓挫』では無いだろうか。