多摩送信所跡

『多摩送信所跡』
 法政大学校の正門を入りトンネルを抜けて2本めの十字路左側に多摩送信所跡の碑石があります(町田市相原町大戸4198法政大学工学部入口十字路北側:35.61247, 139.29967)。
太平洋戦争末期に本土空襲に備えて隠蔽式送信所として建設されました。長崎に原爆が投下された翌日の8月10日、ついにポツダム宣言受諾発信を「宣言に挙げられたる条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることを了解の下に」という条件を付して、この日本の降伏宣言はここからも世界へ放たれました。これで連合軍の攻撃は休止したのです。多くの国民が降伏を知ったのは、8月15日正午のいわゆる「玉音」放送によってでありました。
 この記念碑はその記録として法政大学が残したものです。


 第二次世界大戦末期に近い1944年(昭和19年)、
本土空襲の本格化に備え体外送信の確保が要請され、国
際電気通信株式会社によって隠蔽送信所として多摩送信
所の建設が着手された。当時の東京都南多摩郡堺村相原
と横山村寺田にわたるこの地に、アンテナ敷地7万4千
坪(244,4000平方メートル)を確保し、高さ60
メートルの木支柱を立て、空中線6基を樹林にめぐらし
た。技術者、職員計50名が勤務する局舎を点在させ、
翌年4月竣工し、5月5日から操業を開始した。
 当時、我が国の対外送信は、政府関係以外に同盟通信
社のモールス電と日本放送協会が諸外国語で流す「海外
放送」および「東亜中継放送」があった。これらの海外
送信は、1945年8月10日から15日の間、日本政府
ポツダム宣言受託表明に際して歴史的な役割を果たし
た。政府の外交ルートとは別に、ポツダム宣言受諾に関
するニュースを送り出したのである。
 ここにあった「多摩送信所」も木造、手動による回転
式アンテナから電波を送ることによって、ポツダム宣言
受諾の際に重要な役割を狙い、1946年11月10日、
開設以来1年半で活動の幕を閉じた。本学の多摩校地は
多摩送信所の跡地に位置し、発掘調査により一部の遺構
も確認された。ここにその事歴を誌し、永く後世に伝え
るものである。
  1988年3月30日
                   法政大学

参考『 Vol.22 法政大学 多摩キャンパス内史跡 日本のポツダム宣言受諾を世界に発信した「多摩送信所」跡』法政大学 http://www.hosei.ac.jp/gaiyo/daigaku_shi/museum/2011/111012.html
参考『昭和20年8月10日 ポツダム宣言受諾を世界に発信した多摩送信所』屋根のない博物館 http://park23.wakwak.com/~hotaru2/tamasousinnjo.html
参考『多摩送信所跡碑とアンテナ木柱台石』東京都町田市相原町大戸 http://ooto-info.jp/monument/index3.html