伝鎌倉街道

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身近な事から国分寺市の歴史をひも解いてく、身近な事から旧石器まで。
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まちBBSの『昔の国分寺スレ』で伝鎌倉街道の質問があったので、軽く返答。

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自動車が通る道を「鎌倉街道」、それ以前の人が歩いた路を「旧鎌倉街道」と言う事が多いです。
しかしこの旧道も江戸中期以前の事となると地元の農家の方々に聞いても分からない事が多いのです。

そもそも路は便利だとすぐに出来ますし、使わないと忘れられるのも早いです。
軍事目的だった鎌倉期の路と、江戸期の旅人向けの路、新田開発で増えた人たちの生活道路はそれぞれ違ったルートでしょうし、近くに恋ヶ窪用水が出来れば用水沿いのルートの方が便利でしょう。

で、問題の伝鎌倉街道は、市の人が地元の農家の方々に聞いた時「使ったがどうか知らないが、昔の鎌倉街道だと聞き伝えがある」と言われたのでは無いでしょうか。
ちなみに本多4丁目にある祥応寺は昔、伝鎌倉街道の西の丘の上にあったとの言い伝えがあり、伝祥応寺跡と呼ばれています。言い伝えはあるが発掘しても裏付ける物が出てこないと「伝」を付けるしかありません。鎌倉街道もこれに習って「伝」を付けた可能性もあります。

黒鐘公園の防空壕?は伝鎌倉街道の東の塚(私は今でも古墳だと思っています。遺物がないので伝祥応寺関連の塚らしいですが。)
の事かも知れません。私が入った時はベニア板でふたがしてあって子供が2,3人入れる2mぐらいの穴でしたが。

江戸・明治期につながる戦前の事を知っている70代以上の農家の方々が次々亡くなっています。
伝聞の聞き取り調査や農家所有物の文化財への市指定等も急ぐ必要があると思います。

そういう私も「子の権現遺跡」の場所が分からずにいます。小学生に笑われそうですが、こんど探そうと思っています。

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うしやのおじさん、ご冥福を祈ります。